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■8月31日

小学生の時、夏休みの最終日に1日で理科の自由研究の宿題を終わらせたことがあった。

頭の良い友人に泣きついてみたところ、その彼も手をつけていなかったので、じゃあ2人で何かをしようというのが始まりだった。

とりあえず目についたものを題材に、タイトルは『アリの研究』。

アリの行列に砂糖を置いてみたり、塩を置いてみたりと、やってることはほとんど遊びではあったものの、最終的にはキッチリと模造紙を文字で埋めることが出来た。

もちろんその約半分が彼の捏造だ。

それでも彼の手腕もあって、この研究をクラスの代表作として先生が押してくれるほどの出来栄えでもあった。

「代表作として県に提出するには、観察日記が必要だから持ってきて。」
と先生に言われたときはさすがにあせったりもした。

もちろんそんなものは無い。

うろたえる私を尻目に、彼は堂々と
「全部捨てました。」
と即答していた。

彼は本当に頭がいいうえに、いい根性をしていたのだと思う。

瞬時のその場の状況を把握し、最適な答えを導き出す能力が、彼には既に備わっていたのだろうと思う。

勉強も出来て先生からの信頼も厚かった彼。

多分そのあたりの評価も計算に入れて行動していたのではないかとも思う。


今こうして思い出してみるほどに、なんとなく今の私でも当時の彼には敵わないのではないかとさえ思ったりもする。




■8月30日

ゴミ袋を大量にもらった。


これで今日からゴミを捨て放題だ。

もっとも物理的なゴミよりも、精神的な部分で捨てるべきものが多いことは重々承知している。

ゴミ袋で簡単に解決するような問題でもないということだ。

一番大きい45リットルの袋に入ろうとしてみたり、そのまま足が抜けなくなってムリヤリ出ようとしたらつんのめってヒザを床に強打したり、気がつけば袋が破れていたりと、様々な部分で精神的な問題が山積みなのだということがわかる。

ヒザが痛くて凄くブルーな気分にもなった。

気がつけば物理的な問題も増えている。


最初にゴミ袋に入ろうとしたのは、ある意味精神的な部分を物理的に処分する最良の方法を示唆していると言えなくもないのだなと思ったりもした。




■8月29日

『親切』っていう字は何で『親』を『切る』って書くの?」

自然ガイドをしていた時期に、担当した子供からの質問だったと思う。

子供からの質問はいつだって痛烈に答えにくいものばかりだ。

もちろんちゃんとしたガイドは、子供の手前だからといっても知らないことは知らないと言う。


「うん、それは、親しい人のように、切実な想いを、向けることが、親切ってことだからじゃないかな。」

我ながらよくもまぁ、テキトーな言葉が出てくるものだと思う。

言葉が途切れ途切れなのは、考えながらしゃべっているからだ。

同行のご両親からは予想外に賞賛の視線が向けられる。

(いや、、、そんな真剣に感心されても、、、。)


後々ネットで調べてみて、全然違う理由だということを知って若干の罪悪感を感じたりもした。


世の中には平気で嘘をつく人間がいるということを、我が身をもって知った時期でもある。




■8月28日

車を運転するときに靴を脱ぐ人をたまに見かける。

実際私も一時期裸足で運転していた時期があった。

知り合いに勧められてやってみたら、思いの他しっくりと運転がハマッた記憶がある。

裸足でアクセルやクラッチを踏むことで、より精巧な運転操作ができるような気がしてしまうことがあるのだと思う。

素足で直接触れることでの安心感もあるのだと思う。

実際運転がしやすい感じもする。

「ほら、血が通っている部分で触れないとね。」
という理由も、裸足ドライバーの間ではよく耳にする。

この理由は正直よく分からない気もするのだけれど、それなりに利点が挙げられる裸足運転。


それでも私が靴を履いたまま運転するようになったのは、単に脱ぐのが面倒くさくなったからだ。

面倒くさがりは時に不可解な頑張りをみせるものなのだと思う。





■8月27日

中学校の頃、学校から家まで徒歩3分くらいだったこともあり、自分の部屋が友人たちの溜り場的な場所になっていた。

放課後から部活が始まるまでの間、みんなでだらだらと部屋で漫画を読んだり駄菓子を食ったりしていた。

その割にはみんな個々で行動することも多く、バラバラに部屋に入ってきてはバラバラに出て行ったりして、あんまりまとまりが無かった。

場合によっては一部の数人だけが部活に遅刻して、校庭100周させられたりもしていた。

もちろん私は最初に部屋に入って最後に部屋に出る立場なので、専らグラウンドを走っていたと思う。


頭が悪いほどに、アホほど体力がついていく仕組みだったのだなと今さらながらに納得したりもする。





■8月26日

気がつけば8月も最終週。

ちょっと前に『今年も夏が始まる』と思っていたのに、もう夏も終わりだ。

まったく何も無かったかというと、そういうわけではないと思うのだけれど、何か得るものがあったかというと甚だ疑問でもある。


負の要素については色々と思い当たるフシはあるのだけれど、容認しないためにも言及は避けたい。





■8月25日

県民性というか、ご当地ならではの特徴が垣間見えるページがあった。

ご当地の踏み絵
http://www.linkclub.or.jp/~keiko-n/go.html/gototi.html

中々的確と思わせる内容でまとまっている。

ただ、地元の県でさえ所々それはどうなのかと思わせる意見もある。

中にはかなり個人的な主張も少なくない。

でも嫌いじゃない。


ちなみに静岡に移り住んで1年半ぐらい経つのだけれど、自分が当てはまる項目はほとんど無かった。

登呂遺跡のことを『静岡のヴェネチア』と言うことに関しては、少なからずも衝撃を受けたりもした。

今まで複数の県を転々としてきただけに、全てにおいて中途半端に染まっている自分も垣間見える。





■8月24日

半裸で寝ると体調を崩す程度に寒くなってきた。

寒くて目が覚めてまず最初にとる行動は、服を着るとかではなくて『うつ伏せになる』ことだったと思う。

『立ち上がる』という選択肢は極力避けたいと思うのが、寝起きの特徴なのだと思う。

そして次の行動は『毛布を身体に巻きつける』だ。

その場しのぎでも寝ながら対応できることを願って行動をおこすのが寝起きの特徴だ。

ただ、『毛布を身体に巻きつける』という行為は思いの他保温性が弱い。

重要なのは布の厚さではなくて、身体と布との隙間(空気の層)の薄さなのだということを身をもって知ることができる。

結局寒さで起きてしまうことに気づいたとき、次に起こす行動は『時計を見る』だ。

要はあとどれくらい寝ていられる時間があるかを確認する為なのだと思う。

朝まで数時間あるようならば、目が冴えてしまう危険性を踏まえつつも『立ち上がる』という選択肢をとったりもする。

逆に朝まで1時間程度しか無い場合は、我慢してそのまま時が過ぎるのを待つ場合が多い。

安眠を求めているハズの選択肢が『朝まで我慢』というよく分からない状況になるのも寝起きならではの特徴の一つなのだと思う。




■8月23日

色々な人付き合いの中で、誤魔化したり発言を控えたり無意識に調整することはよくあることだと思う。

ただ、年が経つごとに複雑に人間関係がこんがらがってくるので気をつけたい。

ふと思い立って、今までの関係をちゃんとまとめてみようと思う。

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小学生時代 (ほぼ音信普通)
中学生時代 (一部小学生時代との繋がりアリ)
高校生時代 (一部小学生時代との繋がりアリ)
予備校時代 (ほぼ音信普通)
大学時代   (一部高校時代との繋がりアリ)
バイト関係その1 (一部大学時代との繋がりアリ)
バイト関係その2 (ほぼ音信普通)
バイト関係その3 (ほぼ音信普通)
バイト関係その4 (ほぼ音信普通)
バイト関係その5 (ほぼ音信普通)
仕事関係その1  (ほぼ音信普通)
渡タイ関係     (外部との関連性ナシ)
タイ滞在時関係  (一部渡タイ仲間との繋がりアリ)
仕事関係その2  (外部との関連性ナシ)
仕事関係その3  (外部との関連性ナシ)
仕事関係その4  (外部との関連性ナシ)
西表島関係     (一部仕事関係その4との繋がりアリ)
仕事関係その5  (外部との関連性ナシ)
----

知る限りでは、大体の概略がこんな感じだと思う。

特に気を使わずに話せるのは専ら『外部との関連性が無い』部分だ。

また、ツジツマ合わせや帳尻合わせに利用しやすいのも『外部との関連性が無い』部分だ。

ただ、独立している『外部との関連性が無い』部分が、何らかの原因で他との繋がりを持ってしまう可能性も無くはない。

繋がった場所によっては、キャラの違いや話した内容・秘密などの面で猛批判を浴びる可能性もあると思う。

実際過去に大学時代と高校時代が予想外の場所で繋がって、事後処理が面倒な事態に陥ったこともあった。

それがアノときのアレだ。

このページもある意味色々な部分で繋がっているので、明確な言及は避けておきたい。




■8月22日

友人から久々に電話がかかってきたと思ったら、『彼女できました報告』だった。

正確に言うと『新しい彼女ができました報告』だ。

聞くと、突然予想外の人から告白をされたらしい。

昔からそういうヤツだ。

別れてから2〜3ヶ月足らずで新しい恋人が出来てしまうようなヤツだった。

しかも自分からは何もせずにだ。

『晴天の霹靂』という言葉は、インチキ政治家とヤツが使う為だけにあるのだろうとさえ思う。


私の場合、予想外の告白なんて一生巡り合えないのだろうなとも思う。

そして想定内の告白は、もっとありえないのだろうなとも思う。


出来ることなら、世の中の『モテ要素』の分配バランスをもうちょっと考えて欲しいと切に願いたい。




■8月21日

今から10年以上前、『100%豆スナック・ジャック』というお菓子があったと思う。

「マ〜メマメマメマメマメマ〜メ、マ〜メマメマメマメマメマ〜メ、マ〜メマメマメマメマメマメ、マメマメマ〜メマメ〜♪」
とCMで渡辺正行が歌っていたのが印象に残っている。

ハワイアンに似た曲調だったので、今でもハワイアンを聴くとこのフレーズを思い出してしまう。


当時このお菓子の存在が納得いかなかった記憶がある。

『100%豆』と言ってしまったら、それは単なる『豆』じゃないかという想いがあった。

それが気に入らなくて、このお菓子をあえて食べようとしなかったぐらいのこだわりがあったと思う。


意味の無い信念をたくさん持っていた私も、突然節操が無くなるほどにこだわりが無くなる時期があった。

多分その頃が大人になった頃ということで、だいたい合っていると思う。




■8月20日

飛べないトリを拾っってしまった。

うまく立てない上に全然飛べない。

獣医さん曰く、
「足の骨折も無いし、羽も折れていない。筋肉もしっかりしてるし、、、。ま、どっかにぶつかって落ちたんでしょう。適当に様子を見てください。」とのこと。

多分そのうち治るということらしい。

とりあえず放っておきつつ様子をみてみたい。


『飛べない』ということと『飛べ!』という想いを込めて、鳥部さんと命名。


うまく立てない鳥部さん。

基本的に野生なのでまったく懐かない。

もちろんこっちも余計な手を貸すつもりは毛頭無い。


倒れるように水を飲む鳥部さん。

少なくとも焼き鳥が食べられなくならない程度に付き合っていくことにしたい。




■8月19日

あえて言わないことってあると思う。

言わないことで余計なトラブルを回避するための防護策だ。

もちろんトラブルを余計に増徴させる危険性も持ち合わせてはいると思う。


逆に言ってもいいことっていう考え方もあると思う。

例えばピンポイントで中学時代の友人には言えなくても、高校、大学、バイト、会社仲間あたりには普通に話せたりもするようなことだ。

もちろん予想外な部分でつながりがあって、時間差で余計なトラブルを運んでくる可能性は否めない。


基本的に余計なことに関わった時点で、言っても言わなくてもトラブルの芽は育ってしまっているのだと思う。


何故だか自業自得と言われてしまうケースが多いのだけれど、あくまで『関わってしまった』という言い方をしていきたいと思う。




■8月18日

『危険を感じさせない存在だ』と評されたことがある。

あんまり気にはしていなかったのだけれど、親しい友人に改めて指摘されるとちょっと考えてみたりもする。

危険を感じさせない存在が、異性を感じさせない存在になってしまっているというのだ。

(エロか!?エロが足りないのか!?)

(もっと全面にエロを押し出していく必要があるということか、、、。)


そもそも下心まる出しでガツガツいって、うまくいかなかったから今のスタイルに変えたハズなのだけれど、それでまたダメ出しをされるとは思わなかった。

キャラづくりも適度なバランスが必要ということなのだと思う。


今後は所々でエロを活用して、失敗したら友人のせいにしていきたいと思う。




■8月17日

中学校の頃の成績はそれほど悪くはなかったと思う。

でも基本的にバカだったとは思う。


中間・期末テストの一週間前は、早く帰って勉強するために部活も休止だった。

それをいいことに、テストの前日に友人たちと校庭で延々とサッカーをやっていて、学年主任の先生に
「帰れ!!」
と怒鳴られたこともある。


テスト勉強もせずにサッカーをしていた背景には、『テストの前日にジタバタしてもしょうがない』という、悟りに近い想いがあった。

バカはバカなりに考えを持って行動していたと思う。

勉強は日々の積み重ねだということを、しっかり理解していたからこその行動だ。

むしろ『ヤマを張って良い点数をとっても、それは本来の実力じゃない』ぐらいの高尚な想いすらあった。

もちろん都合のいい正論に飛びついているだけだ。


少数派をものともせず、友人たちが安心して遊びに取り組めるような誘い文句を考える能力は持っていたのだと思う。




■8月16日

昨日までお盆休みを満喫してきた。

地元と東京と静岡それぞれのポイントで人と会ったり会えなかったり。

最終的には4人ほど会えなかった人がいたと思う。

そのうち3人は、お盆ならではのまったく同じ理由で断られた。

同じ理由が3回続くとさすがに微妙な気分にもさせられる。

きっとそうに違いないと自分に言い聞かせながら、色々な部分を気づかずに素通りするスキルが必須だ。

強く生きるにはそれなりの能力が必要なのだと思う。


満喫したんだ、、、と心の中で何度もつぶやいてみたりもする。




■8月15日

今日は『三島祭り』の初日。

三島の大イベントの一つで、街中は賑やかな笛や太鼓の音がこだましている。


祭りに直接参加をしていない場合、一番の醍醐味は『浴衣姿』につきると思う。

ここぞとばかりにメガネをかけて、日本の情緒を堪能するひととき。

メガネの存在に心から感謝するひとときでもある。


昨日海に行ってきたときも、メガネをかけたりはずしたりと何かと忙しかった。

海も純粋に泳ぐ目的が無い場合も、一番の醍醐味は言うまでもないのだと思う。

物事の本質は常に変わらないのだということを、メガネから学ぶことが出来る。


きっとメガネを発明した人も、私と同じ情熱をカタチにすることで夢を叶えたのだと思う。




■8月14日

牛乳パックの残し具合に戸惑うことがある。

一人暮らしの牛乳はパックの直飲みが定番だ。

最後の2口分くらい残ってしまうと、これだけ残すのもどうかと思ってしまう。

次に飲みたいときに、2口分しか無かったら明らかに足らないだろうと思うからだ。

これだけ残しておいてもしょうがないかと思うので、飲み干してしまおうと考えることが多い。

でも飲みたいだけ飲んだ後なので、もうそんなに飲みたいわけでもない。

もちろん飲めないわけでもないので、とりあえず飲んでみる。


満足するまで飲んだ後の2口分って結構多く感じる。

一口飲んだ時点で、やっぱり飲まなきゃよかったと後悔したりもする。

そして後悔した時点では残り一口分になっているので、なおさら残すことに抵抗を感じてしまう。

もうそうなったら飲むしかない。

結果、お腹が牛乳でタポタポになってしまう。

(こんなハズじゃなかった!)

牛乳の飲みすぎは翌日に深刻な影を落としたりもする。


残るのは常に後悔だけなのにも関わらず、牛乳を残り少ない状態で飲み残せた試しがない。

学習しない大人たちの永遠のテーマがそこにあるのだと思う。




■8月13日


昨日鎌倉のシブめのお店で天ぷらそばを食べてきた。

細麺でクセのない味わい。

ほのかなソバの香りと、口の中でとろけるような舌触りとのどごし。

つゆの味は濃すぎず薄すぎず。

すべての素材が主張し過ぎていない控えめなポジションをとっている。

絶妙なバランス。

一言でいえば『上品』な味だ。

多分このソバを不味いと言う人はいないような気がする。

ソバ界の優等生的なたたずまいすら感じる。


私的にはソバ独特の香りや味の強さやコシの強さなどの特徴の一点が強烈に主張しているほうが、好みの判定をしやすくて好きになりやすかったりもする。

異端児や劣等性に惹かれる傾向があるのは、深層心理に潜む『親近感』の成せるワザなのだと思う。




■8月12日

一億円ど〜〜ん!!
これでだいたい一億円くらいだ。

一束一千万円、、、こうしてみると一億円ってそれほどの量でもないのだなと思える。

大金を手にしたことのない人間にとって、『億』の感覚って結構あやふやなのだなと改めて思った。

もちろん満足感が無いわけではない。




偽札工場
偽札作製の残骸、、、。

正直、作るのはそれなりに時間と労力がかかった。

やはり一億円は侮れないということだ。

例え偽物でも色々な想いと教訓を与えてくれる一億円。


庶民の夢でもある札風呂は、十億円くらいあっても微妙に足りないという、知ってるようで知らなかった『お金豆知識』が増えたりもした。




■8月11日

「油そばって美味しいよね。」
「うん、美味しいお店は美味しいよね。」

自分の返事の内容があまりにも当たり前だったことに驚いた。

無意識のうちにテキトーな返事をしてしまっていることがよくある。


「泳ぐのは得意なほう?」
「そんなに得意じゃないけど、疲れなければいくらでも泳げるよ。」

その答えはどうなのかと思えるほど、泳ぎの得手不得手を完全に無視した返答だ。

質問したほうは、一瞬納得しかけてから首をかしげていたりする。


即座にイエス・ノーで答えにくいと思ったときに、何か一言付け加えてみたのだけれど、余計にわかりにくくなってしまった悪い例だ。

親切心が生んだ功罪だと思う。

何も結論が出ない会話がそこにある。

せめて質問の答えを含んだ返事ができるよう、今後は気をつけていきたい。




■8月10日

『食事中のア〜ンして』とか『いってらっしゃいのチュー』だとか、結婚への甘い妄想を広げている中、経験者の方からの冷静な一言。

「そんなの最初だけだよ、、、。」

おそらく酸いも甘いも知り尽くした上での含蓄のある一言だ。

いや、正直そんなことはわかっている。

ただ最初だけだからといって、それをやらない理由にはならないとは思う。

むしろ今しか出来ないと分かっているのに、最初だけだという理由で今の素直な感情を押さえつけてしまうのは、大人の良くないところだとも思う。

どうせ大人になるのだからといって、青春時代に何もしないのと同じくらいもったいない話だ。


ちなみにこの話の流れで、その通りだと首肯してしまった人は騙されやすいと思うので気をつけたほうがいいと思う。

間違ってはいないのだけれど、『問題はそこじゃない』と論点が途中でズレていることに気づいた人は、的確に物事を判断できる、私の苦手なタイプなのだと思う。




■8月9日

トウモロコシが美味しい時期だ。

今日も茹でたトウキビをもらって美味しくいただいた。

モロコシをトウキビって言うのは北海道の方言らしいのだけれど、慣れていないとサトウキビと聞き違えてしまいそうになる。

状況的にサトウキビである場合が圧倒的に少ないので基本的に間違えることは無いのだけれど、反応がワンテンポ遅れてしまうのも事実だ。

沖縄でサトウキビをかじって過ごしたこともあってか、なおさら違和感を感じたりもする。


「トウキビ食わんかね。」
と聞かれたとき、真っ先に思い浮かぶのはどちらかというとサトウキビの方だ。


人生において、正直サトウキビを食べたい気分になったことがあんまりない。

いや、決してサトウキビが不味いとか嫌いとかではなくて、食べ物としての認識があんまり無いのだと思う。

今となってはサトウキビを食べる機会も稀ではあるので、サトウキビを勧められたら断る理由は無いだろうとは思う。

ただ、あのいかにもといった濃い甘さを思い出してしまうと、果たして今食べたいものかどうかは考え物だったりもするのだと思う。

旬のトウキビのもつ絶妙な甘みも、サトウキビを思い出してしまうと微妙な気分にさせられてしまうものなのだとも思う。





■8月8日

気がつけば夏真っ盛り。

もうお盆休みが目の前で、海へ山への行楽シーズンの真っ只中といってもいい。

異常とも思われるとろけそうな真夏日が続いているのも、観光する側に言わせれば最適な日が続いていると言ってもいい。

今、行楽地はどこも人だらけのようだ。

先月抜群のタイミングで富士山に登ってきたのだけれど(『とりあえず富士登山』参照)、今では大量の観光客で山小屋のトイレがあふれるとまで懸念されているらしい。

トイレがあふれるなんて、小学生が目を輝かせて喜びそうな事件だ。

いや、正直な話ヤフーニュースでそのことがピックアップされているのを見て、真っ先にクリックしたのは自分だ。


結局いくつになっても、その辺の話題への興味や渇望は失われないものなのだと思う。

これからも少年の心が持つような純粋な感性を忘れずに大切にしていきたいとも思う。




■8月7日

会話の中のふとした部分で、
(この人とは合わないな、、、。)
と感じることは誰でも経験があると思う。

ただ、基本的に合わない部分があるのは当たり前なのだとも思う。

合う部分よりも合わない部分のほうが気づきやすいということもあるのだと思う。

むしろ合わない部分があると、その価値観の違いから興味深い存在になっていたりもする。

『美人は3日で飽きる』というのと同じように、性格が合いすぎても平穏すぎてスグに飽きてしまうものなのではないかとも思う。

そう考えると、結果的に合わない人なんていないのだと思う。

多分、疲れるか疲れないかということでもあるのだと思う。

言い換えれば、疲れたいか疲れたくないかということなのだと思う。


表現が全然分かりやすくならない上に、自分が何を言いたかったのかさえ見えなくなってきてしまっている。

結局のところ、そのへんは理解出来そうで出来ないものなのだということでいいのだと思う。




■8月6日

以前、少人数のアウトドアガイドをやっていたときに、10人程度の名前を最初の自己紹介時に憶えることが必要だった。

正直言って名前を憶えるのがあんまり得意ではなかった私。

端から名前を言ってもらうのだけれど、4人目ぐらいで一番最初の人の名前があやふやになったりもした。

珍しい名前は憶えやすいようで、逆に憶えにくかったりもしたし、あまりに普通の名前すぎて、憶えられなかったこともあった。


ある日のこと、男女のカップル4組、計8名を担当することになり、いつものように自己紹介をしてもらったときのこと。

「安藤です。」
「斉藤です。」

(・・・・・・・・・。)

「加藤です。」
「佐藤です。」

(・・・・・・・・・・・・。)

「伊藤です。」
「後藤です。」

(・・・・・・・・・・・・・・・・・。)

「進藤です。」
「同じく進藤です。」

(・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。)


「なんかすいません、似たような名前で、、、。」


私がよっぽど険しい顔をしていたのか、何も悪くない進藤夫妻からそんな声までかかったりもした。

「いえ、そんなことないですよ。『藤』祭りですね。」

私自身、頭がこんがらがっていたのか、そんなよくわからない返事をした記憶もある。

自分で言っておいて、
(何だよ『トウ祭り』って、、、。)
と、ずっと心の中でツッコんでいたことを憶えている。

最終的にはお客さんたちも
「今日はトウ祭りですからね。」
などとお互いに盛り上がってたりもした。

基本的にガイドトークはイキオイなのだけれど、何も考えずにとりあえず言葉を発していると、妙に心に残るどうでもいい発言が生まれたりするのだなと思った。

(※一部仮名表記です。)




■8月5日

大雨の予報を裏切って晴れている日中。

少々湿度は高いものの、日差しもある。

雨が降ると思っていただけに、何の予定も入れていなかった。

(雨の予報なんかが出てさえいなければ、、、。)

先日に引き続き、色々な部分を天気のせいにして自分自身を守っていくことにしたい。


夕食の買出しに外に出ようとした頃に雷雨が降りだす夕刻。

30分ほど待ってから諦めて服を脱いだ頃に雨が上がる夕刻。

天気に嫌われているというよりも、雨と相性が良いのだと考えておきたい。




■8月4日

猛暑が続いたと思ったら、今夜は大雨洪水警報が出ている。

明日の私の休みをピンポイントで狙ったかのようで、天の意思すら感じる。

もっとも何の予定も入れていないので、それほど残念というわけでもない。

今、『予定を入れていない』と意図的に予定を入れていなかったニュアンスで書いてしまうあたり、自分自身に切ない見栄を張っているのだなと思った。

自分自身に見栄ってどうなんだと思う。


雨の日の楽しい過ごし方について書いてみようと思っていたのだけれど、なんかもうそんな気分じゃなくなってしまったので、今日はもう寝ることにしたい。




■8月3日

昨晩、茨城の地元の友人から電話があった。

「今、飲んでるからお前も今スグこいよー。」

平和な日常に土足で踏み込んでくるお約束の行為だ。

飲み会のテンションがそうさせるのだと思う。


着信の時点でわかっていることだけれど、行けるワケがない。

いや、実際行けなくは無いのだけれど、付き合い始めた恋人じゃあるまいしそこまで熱くはなれない。

そもそも行ったところで得るものが何も無い。

いや、『一瞬の盛り上がり』とか『しょうもない想い出』とか何かしら得るものはあるハズではあるのだけれど、労力の割りに合わないことは明らかだと思う。


お互いにそのことを理解した上での不毛な電話のやりとりが続いていく。


友情だとか義理だとか感情的な部分を無視して、完全に物理的に得られるものを重視して行動を計算していくのが大人になったということなのだと思う。





■8月2日

自分自身がいっぱいいっぱいのとき、他人を気づかう余裕が持てないときがある。

別に怒っているわけではないのだけれど、自分のブラックな部分が出てきてしまっているのがわかる。

これではまずいと思いつつも、その日はほぼブラックな設定のまま一日を過ごしてしまったりもする。

常日頃からクールで無口なブラックよりも、誰からも好かれず嫌われもしないキレンジャーのポジションを目指したいと思っているだけに悔やまれる一日だ。

カレーが大好きという部分で条件を満たせていることが、キレンジャーへつながる唯一のクモの糸なのだと信じておきたい。


ここ数日の心の乱れっぷりは、疲れのせいということで見逃して欲しい。




■8月1日

頑張ることはカッコいいことだけれど、実際に頑張っている姿はカッコ悪いことが多いというのはよくある話だと思う。

最終的に結果として残ったものは、後々振り返って概念的にもカッコよさを感じることができるのだけれど、経過としては力尽きて白目でよだれをたらしていたりするのだと思う。

床の上で死んだように突っ伏して、顔に変なアトをつけていたりするのだと思う。

フラフラとよろけながら、トゲトゲの草むらに突っ込んで、もう立ち上がるのも面倒になってたりするのだと思う。


最初の一文を早くも覆す結論ではあれど、場合によってはその頑張りを経過の時点で台無しにしてしまう人間もいるのだと思う。




■7月31日

眠気に抵抗することが出来ないことがある。

気がつけばもの凄いイキオイで頭が下に落ちていく感覚で我に返ることが良くある。

よく電車内とか授業中に寝かけてビクッとしてしまうアレだ。

大抵頭が落ちていく感覚で目が覚めるのだけれど、何回か机や壁にしこたま顔面をぶつけたことがある。

すごく痛くて目が覚める。

そのシーンを見ていた友人に真顔で心配されたこともある。

そんなときは、あえて笑いにしてあげるくらいの優しさも大切なのだと思う。




■7月30日

夕方以降に不規則に降り始めた雨のおかげか、今までの熱帯夜が嘘のように心地よい夜。


Tシャツのままフローリングの床の上に横になってみた時点で、もう起き上がれないのだろうなということは何となくわかってはいた。

全身の力が抜けていく。

心も身体も気持ちの良いほうに流されていく自信はある。

気がつけば夜中の3時。

電気もテレビもつけっぱなしだったので、浅い眠りの中で惰眠をむさぼっていたのだと思う。

窓も開けっ放しだ。

気がつけばドアのカギも開いてた。

基本的にありえない状況のハズなのだけれど、眠いとき、人は判断力を失うのだと思う。


何で目が覚めたのかをまともに考えられないままに、そのまま就寝。




■7月29日

昨晩、久々に旨いものを食べてきた。


寿司って贅沢な食べ物だなと思いつつも、惹かれてやまない存在なのだと思う。

写真はアジ(多分)。

片方は炙ってくれているので、脂の感じも身のほぐれ具合も別物の美味しさがある。

旨いものは食べているときはもちろん、食べたのを思い出しているときも幸せな気分になれるのだと思う。


一般的に寿司が2貫ずつ出てくるのは、昔はネタやご飯が貴重だったため、大きめの握りを2つに切って出していたことから、その名残りが今でもあるということらしい。

ちょっとした会話の節々に、大将の寿司&魚豆知識が盛り込まれてくるのだけれど、最終的にほとんど憶えられていない。

目の前の寿司に夢中で記憶力が欠如してしまうのだと思う。

いや、記憶力が無いのは元々だ。

その辺が私が寿司屋になれない理由なのだと思っておきたい。




■7月28日

何かを口にする前に、頭の中で言葉を何度も吟味する傾向がある。

『デンサー節』の訓えにもあるように、一度口から出た言葉はどんなことがあっても取り戻すことができないし、言いっぱなしで無責任なことになるのが怖いのだと思う。

早い話が、自分が言ったことと実際のこととが食い違った際に、そこを突っ込まれるのがイヤなのだと思う。


そのせいか、滅多に会えないような友人には結構何も考えずに自分のことをそのまま話してしまう傾向もある。

言ったあとに自分の考えが変わったとしても、特に批判などの影響を受けにくいという、歪んだ安心感があるのだと思う。


反面、頻繁に顔を合わせるような親しい人と話すときは、迂闊なことを言わないようにと、ちょっとした緊張感すら漂ったりもする。

今まであんまり考えたことがなかったけれど、知人からよく『何考えてるかわからない』と言われる理由がそのあたりにあるような気もする。


性格的に色々なものに影響を受けやすいので、考え方は結構な頻度で変化しているとは思う。

そのへんをいちいち説明するのが、単純に面倒なのだと思う。


自分を分析するほどに、新たなダメ人間ぶりに気づかされたりもする。




■7月27日

クーラーの冷気があんまり得意ではない。

多分身体が冷えるのが、周りの人より早いのだと思う。

クーラーの効いた部屋にいると、外のぬるい風が恋しくなる。

でもしばらく外に居ると、クーラー涼しさが恋しくもなる。

心と身体が欲するものの違いが引き起こすジレンマの一つだと思う。


直球を避けて、言いたいことをぼやかして遠まわしな表現を探していくうちに、よくわからない例えになってしまった。


一旦冷蔵庫で冷やしたものを常温に戻すと、ずっと常温に置いていたものよりも若干足が速くなるように、クーラーの効いた部屋と外とを出入りすることで、身体の色々な部分に支障をきたしてしまうのだと思う。


正直、クーラーに例えてしまったのは失敗だったと思う。


もう自分でも何が言いたかったのかよくわからない。




■7月26日

全てはタイミングがカギだと聞いたことがある。

確かに寂しいときとか、心が弱っているようなときに、やさしい声をかけられるとグラグラとしてしまうのは人の性なのだと思う。

また、相手のそういう状況を敏感に嗅ぎつけて声をかけられる人間が、モテるということなのだと思う。

そして、そういう本能的な能力に欠けていると、ここぞというタイミングを逃してしまうのだと思う。

もっともそういった能力が無くても、タイミングを無視して常に声をかけていくことで、そこはカバーできるのだとは思う。

マメな人間がモテるというのはそういうことだと思う。

もちろんそんなことはわかっている。

それをわかっていてそれをしないのは、マメに声をかけるほどに傷つく頻度も高くなるからなのだと思う。

マメに行動してモテるというのは、それだけ心のリスクを負うことでもあるのだと思う。

そんなリスクを避けているから、こんなにモテないのだろうとも思う。




■7月25日

数年前にでてきた血液型占いで、各血液型ごとの性格的な特徴などが浸透してしまっている昨今。

大雑把な人を見て
「O型っぽいよね。」とか言ってたりもした。


でも最近気になるのは、たとえば自己中な行為のあとで
「ホラ、私B型だからサ。」と言って済ませてしまったりする傾向があったりもする。

いや、そこを血液型のせいにしてしまうのはどうなのだろうかと思う。

反面、その使い勝手の良さは魅力的だとも思う。


血液型占いを否定しつつも、さりげなく自分を弁護する際に利用していくのだと思う。

血液型占いが生んだ功罪。




■7月24日

子供の頃一度だけ、夕食のおかずが『うどん』という経験があった。

結構衝撃的で、今でもすごくよく憶えている。

うどんをすすって、、、、、ごはんを食べる、、、、、。

子供心に何かがオカシイと思いつつも、何が変なのかがわからなかったあの頃。

今思い出してみても、色褪せることのない斬新なメニューだったと思う。


特に指摘したわけではなかったのだけれど、それっきりそのメニューが食卓に登場することはなかった。

料理上手の母も、迷いや失敗はあったのだと思う。

いや、もしかしたら時代を先取りしすぎていただけだったのかもしれない。

今となっては知る由もない。

今後何かのキッカケで『ごはん』と『うどん』の組み合わせが流行することがあったりしたら、真っ先に母の墓前に敬意を表しに行きたいと思う。




■7月23日

いつも通り、半日遅れての筋肉痛。

次の日の夕方ぐらいからひどく足の筋肉が痛い。

もちろんこれは想定の範囲内なので、特に問題では無い。


予想外に問題なのは、首元の日焼けの痛みだった。

この表面的な痛みが結構しんどい。

日焼けの痛みに悩まされるのは中学生以来かもしれない。

もっとも中学生の頃は、そんなに悩んではいなかったような気もする。

そんなことでブルーにはならない程度に人生に夢中な熱中時代だったのだと思う。


でも冷静に考えると、日焼けの痛み以上にブルーになる要素が満載だったのだろうとも思う。




■7月22日

今日は久々に身体に無茶をさせてみた。

1年くらい前にビリーズ・ブート・キャンプをやって以来かもしれない。

尋常じゃないくらいしんどかったので、明日・明後日の筋肉痛は必須だと思う。

筋肉に無理をさせたことによる筋肉からの仕返しのようなものだ。


身体を鍛えていく中で筋肉痛が生じるのは仕方が無いとは思う。

でも単に一時的に身体を酷使しただけの場合、筋肉痛は免除してくれてもいいのではないかとも思う。

何かしら別の代替案と、もう当分無理はさせないことを条件に、痛くしないで欲しいとお願いしたい。




■7月21日

最近幽霊っぽいものをめっきり感じなくなった。

別に霊感があるわけでも、よく見るわけでもないのだけれど、数年単位くらいでそういったモノや現象に遭遇していた気はする。

最後に感じたのは2年半くらい前だっただろうか。

(・・・・・・・・・。)

思い起こしてみると、まだそんなに経っていない。

コンスタントに出会う想定範囲内だ。

むしろ、そろそろなのではないかと思わせるような時期でもある。

イヤなことを再認識してしまった。

これから始まる夏に向けて不安要素がまた一つ、、、。




■7月20日

仕事上リスク管理の基本の一つとして、最悪の状況を想定しておくことがあげられる。

そこからある程度の防護策を事前準備しておくことで、トラブルを回避することができる。

とどのつまり、どれだけ最悪のパターンを事前に考えておけるのかが重要なのだと思う。


人生において自然に身に付いていくスキルとよく似ている。

あえて最悪の結果を予想しておくことで、ある程度の惨事をちょっと凹むぐらいで抑えることができる。

いかに自分を傷つけないようにするかは、どれだけ最悪の状況を想像しておけるかにかかっている。

色々と人生を経験していくことで、最悪の度合いがより深く洗練されていくのがわかる。

傍からみると物事に動じていないように見えることがあるらしいのだけれど、実は誰よりも傷つきやすいメンタル面がその原動力となっていることがわかる。

少なくとも、予想外の些事で人一倍落ち込む自信はある。




■7月19日

ネコの王様として知られる『ケット・シー』。

色々な話にも出てきて何かと有名なネコの妖精。

そこそこ人気もある。

その反面、犬の妖精である『クー・シー』は知名度が低すぎる気がする。


厄災の前兆でもあり実際の犬と同等の性質を持っている設定の『クー・シー』に比べ、『ケット・シー』は二足歩行で複数の人語を操り王制の中で生活しているという設定らしい。

アイルランドの伝説にはまったく興味がないのだけれど、この差はなんなのだろうと思う。

理不尽に感じる部分があるのは、現実も作り話も変わらないのだと思う。

日の当たらない『クー・シー』側の存在に、人はカタルシスを感じていくのかもしれないとも思う。




■7月18日

シャンプーがそろそろ切れそうだったので、詰め替え用のシャンプーを買ってきた。

老化の恐怖
既に棚に買い置きがあった、、、。

「うぉっっ!!」
と、思わず声が出てしまうくらい衝撃的だった。

いつ頃買っていたのか全然憶えがない。

今のシャンプーの減り具合から判断して、購入に踏みきったつもりだったのだけれど、もっともっと前に購入をしていたらしい。

さすがに最近の購入ではないとは思う。

いや、でもそう考えると、前回シャンプーをどういうタイミングで購入しようと思ったのかがよくわからない。

何でシャンプーの残りに余裕がある状態のときに買ったのだろうと思う。


日常生活の節々に、早くも老化の片鱗が見え隠れする今日この頃。




■7月17日

不毛なことだとは分かっていても、『過去に戻れたら』と考えてしまうことは誰しも経験があると思う。

でもちょっと真剣に考えてみると、過去に戻れたとしても案外何も変わらないような気もする。

まったく別の新しい人生を歩むかというと、それはしないだろうと思う。

人生の大筋の流れや出会いはそのままに、要所要所の些細な部分で微妙に優越感のような喜びを感じる程度じゃないかと思う。

冷静に分析するほどに、多分つかみ損ねたと思われるチャンスを、ことごとく同じようにスルーしていく自分が容易に想像できる。

実際本当に過去に戻れたとしても、競馬でお金を儲ける程度のショボイ変化しかないのだろうと思う。


『今ここで思い切って言おう』とか『今ここで行動を起こそう』とか考えつつもそれが出来なかったとき、もう一度チャンスがあっても同じことなんだろうなと思うと、割とスンナリとダメ人間ぶりを受け入れることが出来る。




■7月16日

蒸し暑い日が続いている。

寝苦しい熱帯夜を快適に過ごす方法としては、『エアコン』が最有力候補だ。

次点が『扇風機』あたりだろうか。

その他にも、『ウチワ』、『窓全開』、『水風呂』、『床寝』、『全裸』等、それなりに方法はでてくる。

また、上記の方法から2種類以上の合わせ技で『エアコン』に匹敵する快適さを手に入れることもできると思う。

いや、なんとなく流れで言ってしまったけれど、『エアコン』ほどの快適さは難しいと思う。

他のアイデア全てを合わせても『エアコン』には敵わないような気もする。


扇風機をつけっぱなしで寝るのは、身体によくないという話をよく聞くけれど、実際はそんなことはなかったりもする。

身体が慣れるまで時間がかかるだけで、燃費的にもエアコンよりは効率がいいと思う。

その燃費の分だけ快適さがマイナスされているのだと思う。

上記の『窓全開』は、快適さ以外にリスクヘッジ的な部分でもマイナスされているのだと思う。

同様に『全裸』は社会的な部分で大きくマイナスされるのだと思う。




■7月15日

どんな状態でも功罪はあるのだと思う。

欲しい欲しいと思っていた状態が日常になってしまうと、その良さを忘れてしまうのだと思う。

逆に、得るものの変わりに失ったもののほうが大きいということはよくある話で、それに気づいてしまうとその衝動を抑えることは中々難しいのだとも思う。

となりの芝が青く見えてしまうのは、避けられない感情なのだとも思う。

得たものを捨てて、捨てたものを拾っての繰り返しの中、喜びと後悔を重ねていくのが人生なのだと思う。


恋人が欲しいとか、独り身がいいとか、結婚は最高とか、色々な人からそんな話を聞いていると、とりあえずこんな感じの話をして結論をぼんやりと誤魔化すスキルが身に付いていく。




■7月14日

小学生低学年くらいの頃、両手にそれぞれ銅線を持ってコンセントに突っ込んでみたことがある。

やさしいやさしい実の兄が、
「やってごらん?」と、やさしく勧めてくれたのを憶えている。


『バチン!』
というそこそこ大きめの音と共に、コンセントから軽い火花のようなキラメキが出てきていたと思う。

もしかしたら火花は自分の目から出ていたのかもしれない。

シビレとかはそんなに感じなかったような記憶がある。

別にただそれだけで、身体になにかあったわけではないのだけれど、子供心に凄く危険なことをしたということはなんとなくわかった。


原理とか理由とかはおいといて
『コンセントに銅線を入れてはいけない』ということはそのときに学んだのだと思う。


とりあえず、兄もその時に初めて学んだのだろうと思いたい。




■7月13日

コーヒー派か紅茶派かでいうと、紅茶派だと思う。

でも飲む量に関してはコーヒーのほうが格段に多い。

紅茶は休みたいときに飲むのだけれど、コーヒーは眠気を飛ばしてがんばりたいときに飲んでいることもその理由の一つなのだと思う。

コーヒーを飲む度に、攻撃的な味だなと思う。

深みとか味わいだとかはよくわからないのだけれど、感覚的にどれぐらい強いかどうなのかという独自のモノサシでコーヒーを測っている傾向がある。

濃いとか苦いとかはおいといて全部ひっくるめて、ドカンとくる攻撃力の強いヤツが私の欲しているコーヒーで、しかも一般的に旨いとされているもので間違いはないらしい。

たまに缶コーヒーを飲むと、そのパンチの弱さに逆に眠くなったりもする。

私的にはカプチーノよりはカフェオレのほうが強く訴えてくる部分があって好きなのだけれど、理解してくれる人には今まで会ったことがない。

もっとも最初の時点でコーヒーより紅茶派とか言ってしまっている人間が、コーヒーの特殊なこだわりを理解してもらおうというのが間違っているのだと思う。




■7月12日

基本的に目の前にやることがあれば、人はある程度眠らずにいられるのだろうなと思いながら作業を行う深夜27時ごろ。

よっぽど身体を動かしていない限りは、徹夜をしても次の日に持ち越すこともないと思っていたのだけれど、自分の意思とは無関係にバラの茂みに身体が突っ込んでいった時は、さすがに考えを見直そうと思ったりもした。

約36時間ぶりの部屋には、36時間干しっぱなしの洗濯物が待っている。




■7月11日

ラフティングやシーカヤックのガイドをしていた頃、ノットと呼ばれるロープの結び方を色々と憶えた。

試験の為に、特性に合わせて20種類ぐらいは憶えたと思う。

その数の多さに愚痴っていると、
「山をフィールドにしている人が身につけるノットは、こんなもんじゃないよ。」
と、激を飛ばされた記憶がある。


でも、実際に仕事で使用するノットは2〜3種類がいいところだったと思う。

憶えてから一回も使わないノットもあった。


一度、山登りを生業としているお客さんを担当したときに、
「ロープの結び方が速くて巧みですね。」
と褒められたことがあった。

聞いた知識ではあったものの、
「いやぁ、山の人に比べたら全然ですよ。憶えているノットの種類も少ないですしね。」
と返事をしたら、
「私たちも基本的に2種類くらいしか使わないですよ。」
という、当時の私にとって衝撃的な答えが返ってきた。

(そうなのか、、、。)
と思いつつも
(2種類は少なすぎるだろう、、、。)
という喉元まで出掛かったツッコミを必死で抑えていた。


その頃から、プロって一般的に知られているよりも、多くのテキトーな部分で構築されているものなのだと実感したのだと思う。




■7月10日

今日はずっと椅子に座っていただけで、色々なものをもらった。

チョコレートに始まり、野菜ジュース、ラスク2種、プリン、都まんじゅう、缶コーヒー、ボトルコーヒー、食パン、とうもろこし、、、。

よっぽど見た目がヤバかったのだろうと思う。


今までの人生において、基本的に人から食べ物をもらうことは多い。

昔、何かと食べ物をくれる人に、何でか理由を聞いたことがあった。

その娘は少々変わり者のフシがあったのだけれど
「あー、、、いいことがあったからだよ。」
と、言葉少なに言い放って立ち去っていった。


どうやらお供え物感覚だったらしいことに気づくまでたっぷり5秒くらいかかった。

若かりし頃の淡く切ない追憶。




■7月9日

お寺で瞑想をしたことがある。

お寺によって瞑想方法が異なるらしいのだけれど、私が体験したのはとにかく考えて考えて考えて答えを導き出すという瞑想方法だったと思う。

朝から晩まで1畳くらいの個室で瞑想をして、期間的には3日ぐらいだったと思うけれど、尋常じゃないくらい長く感じた。

でも確かに、それなりに深い部分の答えにまでたどり着けたような気はしたと思う。

現代社会において、小一時間程度のヒマを作り出すことも困難な昨今、ヒマをつくる能力がある人だけがたどり着ける贅沢な境地だったのだと思う。


お釈迦様とかが悟りをひらいたのは、単にもの凄くヒマだったからなのではないかと感じさせられるひとときでもあった。




■7月8日

よく、お父さんが子供の運動会で走ると転ぶという話があったと思う。

身体的な衰えを認識しないままに、体力がある頃のイメージだけが先行して身体の動きが追いつかずに起こる現象だ。

正直な話、自分は大学4年生くらいの頃に、既にそれを経験してしまっていたりもする。

学生時代バスケット部に在籍していたのだけれど、2〜3年生あたりでサボりまくって、4年生になって久々に出た試合で実感できた。

ドリブルをしても足がついていかないので、前につんのめって転びそうになる。

あっという間に相手に囲まれると、今度は前に出られずに凄く後ろに反り返ったりと、想像通りに動かない身体で意に反して奇怪な動きをしたりもした。

見ていた友人からは、当時流行っていた映画に例えて
「マトリックスみたいだったよ。」
と、評されたりもした。


20代前半にして『大人』の中堅どころの感触を先取りしていたあの頃。




■7月7日

『お金が無いな、、、。』と考え込んでしまうときがたまにあるので、今日は『一億円あったらどうしよう、、、。』と考えてみることにした。

ナカナカ贅沢で斬新な悩みだ。

でも思いのほか悩みなれていない悩みなだけに、海外旅行とか、高級料理とか刹那的なものしか思い浮かばない。

発想が貧困なのだと思う。

この6畳間の部屋の中で考えていると、サンダルとかナベとか庶民的なものばかりに目がいってしまうのも問題のひとつだ。

(違う、そういうレベルの話じゃない、、、。)
なんといっても使うのは一億円だ。

(じゃあ、家とかマンションとかか、、、。)
それだと途端に堅実でつまらなくもなる。

むしろ一億円じゃちょっと足りない気もしてしまう。

(馬主にでもなるか、、、。)
いや、シロウトが手を出していいものか微妙なところだ。

一体どうすればいいんだ、、、。

幸せな悩みは尽きないままに、今日も夜はふけていく。




■7月6日

蒸し暑い日が続いている。

別に暑いのが好きなわけではないのだけれど、周囲の人の反応を見ていると、自分は暑さに耐性があるのかなとも思う。

以前炭焼き小屋で仕事をしていたときも、炭窯の中の雰囲気が好きで窯の中での仕事を好んでいたせいか、職人さんに暑さに強いヤツだと何度も言われた記憶もある。

タイの農村の人たちには、日本人は暑さに強いという誤解まで植えつけてきた。

生まれは茨城なので、別に幼い頃からの慣れとかではないと思う。


多分、前世的なトコロで火あぶりとかにあっているのではないかとも思う。


たった今この文章を書いていて、少年時代に火事場の工場内で必死に逃げ道を探しているという、トラウマに近い記憶の扉がひらいたりもした。




■7月5日

通りがかったバラの花に大きめのムシがいるのを見かけた。

引き返して改めて見てみると、それはゴキブリ。


いち昆虫であるゴキブリにしてみれば理不尽極まりないのだろうけれど、そこはあえて『君の居場所じゃない』と言ってやりたい。




■7月4日

以前の職場で、庭先に生ゴミを捨てる為の穴があった時期があった。

その場所にはほぼ毎回カメが1〜2匹落ちていた。

毎日その生ゴミまみれのカメを穴の外に出すのが日課でもあった。

穴の外に出ようともがいているヤツもいれば、既に諦めて甲羅の中にこもってジッとしているヤツもいた。

そのカメが天然記念物だということに気づいた頃には、基本的にもうどうでもいい存在として認識していたと思う。

毎回ゴミまみれになっているヤツを、感動の眼差しで見られるほど純粋じゃなかったのだと思う。


観光客の人たちの前では『衝撃の発見!』ぐらいのイキオイで感動を演出していたあたり、やはり純粋ではなかったのだと思う。




■7月3日

小学3〜4年くらいの頃、犬に噛まれて12針ほど縫うケガを負ったことがある。

絶叫して泣き喚いた記憶があるのだけれど、犬に対して何のトラウマも無い。

詐欺にあって騙された人が必ずしも人間不信にならないように、私もそれで犬恐怖症にはならなかったらしい。

そういえば、海で溺れかけた翌日にまた海に遊びに行ったりもしていた。

よく牛乳を飲んでお腹をくだしていたのだけれど、それが何故だか大人になるまでわからなかった。


単に物事を判断する学習能力が無かったのだと思う。

いや、むしろ今も無いのだと思う。




■7月2日

近場の温泉施設に行って来た。

露天風呂で出たり入ったりを繰り返しながら、3時間ほど温泉を堪能した。

湯上りにフルーツ牛乳を飲みながらまったりとした時間も入れると4時間ほどその施設に居たと思う。

温泉料金の元を取ろうという貧乏性の成せるワザなのだと思う。

おかげで肌のスベスベ感が尋常じゃない。

ほてった身体を冷ましながら、半裸で扇風機の風にあたりながら気がつけば寝ていた。

喉がガラガラで頭が痛い。


体調を壊しつつも肌つやがいい状態をキープするという、身体への理不尽な挑戦。




■7月1日

『お腹が空いて眠れない』という話を聞いたことがある。

でも実際はそうでもないんじゃないかとも思う。

もちろんそういう状況に陥って、夜中にコンビニに走ることは珍しくはない。

でもそれは食べ物を買うお金と、購入出来る店がある状況だからなのだとも思う。

本当に食べ物が無くて、食べ物を買うお金も無くて、眠ることぐらいしか出来ない状況であれば、人は眠れるのだと思う。

学生時代にそういう状況になることは珍しくなかったし、眠ることで食欲を忘れてしまいたいという願望もあった。

このまま目を覚ますことは無いのではないかという不安の中で、眠りについたこともあったと思う。


基本的に『お腹が空いて眠れない』というのは、『眠る』以外の選択肢がそこに存在しているからなのだと思う。

人は大人になることで、贅沢なワガママが増えていく生き物なのだと思う。




■6月30日

ガムを噛んでいて、昔『ガムンボ』っていうアイスがあったのを思い出した。

アイスの棒の部分がガムで出来ていて、最後にガムとして食べることができるという優れものだ。

幼少の頃からアイス好きだった私は、新製品にはほぼ必ず手を出していたと思う。

たしか同時期に『カレーアイス』とかのキワモノもあったと思う。

多くの子供達に、それはどうなのかと思わせながらも食べずにはいられない強烈な魅力を放っていた。

それなりにインパクトを残しつつ、見事なまでに姿を消していったつわものたち。


無難な新製品ばかりが横行する昨今のアイス業界。

それに比べて、アイス史に一矢を報いて消えていった彼らの、底知れぬ吸引力と色褪せない個性を、私は評価していきたい。




■6月29日

わからないことがあると不安になる。

でも全てをわかっていたとしたら、それはそれで退屈だと思う。

出来レースが面白いのは最初のうちだけで、すぐに飽きてしまうことはなんとなく想像がつく。

基本的に『予想通り』ということは、それだけドキドキワクワク感が無いということなのだと思う。

そう考えると、思い通りにいかないことこそが人生を楽しんでいるということなのだと思う。


こうやって理屈をこねることで、自分の人生を納得させる術を人は身に付けていくのだと思う。




■6月28日

プリンと言えば、プッチンプリンが頭に浮かぶ。

プリンの名を一気に庶民層まで浸透させた立役者だ。

気がつけば、『プッチンする』という新たな動詞まで出来上がっている。

しかも本当にプッチンプリンを食べるとき限定でしか使えない。

なんなんだそれはと思う。

もっともこんな何の応用も利かない動詞がここまで世間に広まっていること自体すごいことだとも思う。


「プッチンするか、、、。」
声に出して言ってみたあと、冷静に考えてしまうと、誰かに聞かれていないかドキドキしてしまうくらいに恥ずかしい気持ちにもなる。




■6月27日

雨が降ったり止んだりの微妙な日々が続いている。

まさに梅雨真っ只中の昨今。

にも関わらず、唯一の靴に穴が開いてしまった。

雨の中を歩けば、靴の中まであっと言う間にびしょ濡れになってしまう。

まともに履ける靴はもうスポーツサンダルしか無い。

仕方が無いので新しい靴を買うまでの間、サンダル履きで梅雨の日々をやり過ごしている。

基本的に普通の靴を履いていてもそれなりに濡れるので、あらかじめ濡れることを前提に雨の日にサンダルを利用することは合理的でもあると思う。

社会的な部分からは目を背けつつ、自然現象には無理に抵抗しないことで対応していきたい。




■6月26日

「人が人を好きになる理由なんて他愛も無いことなんだよ。」

小説だったかドラマだったか憶えていないけれど、何かでそんなセリフがあったと思う。

前後のストーリーもあったのだろうけれど、当時まだ学生だった私にとって中々グッとくる名言だった。

(これはつかえる!)
そう考えた私は、みんなの前でいかにも自分がフッと口にしたように話して、ひと味違う評価を受けようともくろむ。

恋愛話は日々の日課のようなものだったし、そういう流れに会話をもっていくことはそんなに難しくはなかった。

そして満を持して放った渾身の名台詞(パクリ)は、なんの評価も受けることなく見事にスルーされていった。

みんなからの賞賛を受けた際の、照れ笑いのリアクションまでシュミレーションしていた私にとって、正直ショッキングな結果だったことを憶えている。


「何にしても思った通りにいくことなんてそうそう無いよ、、、。」
最終的に自らの心情をそのまま吐露したこのセリフが、予定外に好評だった。

好感度とは常に予想外の上に築かれていくものなのだと思う。




■6月25日

高校2年の時に、夏休みの宿題を休み前に終わらせたことがある。

その年は友人の分の宿題を有料で請け負っていたこともあって、とっとと終わらしてしまいたかったからという理由がある。

別に筆跡を変えたとかの小細工はしなかったので、今思えばバレバレではあったのだろうけれど、結果的に特にお咎めは無かった。

現国の小論文も有料で友人の分を書いたことがあったのだけれど、クラスが違っていたことと、現国の担当教諭が2人いたこともあって、うまい具合にバレることはなかった。

立ち入り禁止の屋上で遊んでいたことがバレたときも、運よく自分だけ怒られることなく隠れきることができた。

一度だけ講堂での礼拝をサボったときも、たまたま出席をとらなかったらしく、遅刻扱いにならずに済んだ。

タバコを吸っている先輩や友人が多く、隠れて吸っている場所でみんなとよく話していたのだけれど、私が見つかった試しは無かった。


そんなに勉強が出来たわけではなかったけれど、かといってヒドイ成績なわけでもなく、特に問題を起こさない教師好みの生徒だったと思う。

でもこうして断片的に記憶を辿っていくと、一つ間違えば問題児として先生に目をつけられかねない存在になっていたのだと思う。

今まで無駄な運の使い方をしてきていると思っていたけれど、それなりに綱渡りな高校生活を無事切り抜けられていることを考えると、使いどころは絶妙だったのだとも思う。

過去を振り返ると、ある意味もう運を使い切っているのではないかと思わされる事象が多い。




■6月24日

『作物を育てるのに必要なのは愛情です。』

私に一番最初に農業の考え方を教えてくれた人は、全てをその一言に集約していた。

福岡正信氏の一番弟子と称していた人なだけに、基本的には自然の中で余計な手は加えないのという信条を踏まえて、現実的に手間を掛けない農業はありえないことも諭してくれたのだと思う。

自分の都合で種を植える限り、自らが関わり責任を持って育てることは当然だという話だ。

農薬や化学肥料が敬遠され、自然のままの農業が色々なところで謳われている昨今、作物は何もしなくても育つものという微妙な誤解が一般的にみえてきている気がする。


楽な方へ楽な方へと流されてきたつもりでも、何年もたってからようやく楽でもなんでもなかったことに気づくことはよくある。

もちろんそこに気づかないフリをするスキルも、格段に長けてきている。

人はそうやって妥協と共に生きていくものなのだと思う。

こじつけでも理由をつけて自分を納得させるスキルも、年を負うごとに成長しているのだと思う。




■6月23日

最近一日一食の日が続いている。

朝はなんとなく食欲が出なくて、昼は仕事に忙殺されて、夜に一気にドカ喰いをする。


『朝食をちゃんと食べて、夜はむしろ控えめに摂るのが理想的』、のような一般論はよく耳にする。

『夜食は食後の活動が少ない分、多く摂る必要が無い』、というのがその理由の一つだったと思う。

その点を考えれば、朝食と昼食の2食分の栄養を、ちょっと多目に夜食を摂ることで果たせるのは非常に合理的だとも思う。


もちろんこれは単純に食事量だけを考えた計算で、成人病まっしぐらな状況であることは間違いないと思う。

独り者の男性が手料理に飢えるということは、単純に料理の出来る女性に惹かれることとイコールなのだと思う。

食生活の乱れは、自分の好みのタイプの乱れにも繋がっていくのだと思う。




■6月22日

『男は浮気をする生き物』とかいうことが、メディアや噂によって一般的になっている昨今。

基本的にそれは間違いだと思う。

浮気が出来るのは、それなりにモテる人間だけの特権だと思う。

女性に好かれることが前提にある時点で、浮気を男性全員に当てはめるのは無理がある話だ。

男性全てが浮気するという考え方の中で、あえて誰もが見て見ぬフリをしている致命的な穴だと思う。


そこをツッコまずにこの風評を野放しにしているのは、そうでなければおさまりがつかない女性陣と、モテ組に入りたくても入れない男性陣との、淡い希望と切ない夢とが入り混じった何かがそうさせているのだと思う。




■6月21日

年相応の見た目と、ワイルドさを求めて、生まれて初めてヒゲを伸ばしてみた。

もともとそれほどヒゲが濃くなかったので、ここまで伸ばすのに1ヶ月近くかかった。

そして思いの他、ヒゲが密集してない。

しかも手入れの仕方など知らないので、鼻ヒゲが上クチビルに触れて気持ちが悪くなってきた。

多分このまま伸ばし続けても、当初予定していたワイルドさもダンディズムも得られないのは目に見えている。

まぁ、もともと無いものをヒゲだけで手に入れようとした時点で間違っていたのだと思う。


とりあえず今後誰かにヒゲを伸ばし始めた理由を聞かれたときは、ブレイク中の『髭男爵』に触発されたとでも言っておくことにしたい。




■6月20日

使用しているマウスの調子が悪い。

右クリックのボタンの反応がイマイチ良くない。


しかも以前分解掃除をしたときにネジを無くして以来、持ち上げようとすると上部分がはずれるという末期症状。

いまだにボールマウスということを差し引いても、マウスとして致命的な状態だと思う。


そんなわけで、ついに新しいマウスを購入。

しかもちょっと高価なヤツを買ってみた。

一気にグレードアップしたマウス。

フィット感も使用感もくらべものにならないくらい抜群によくなった。


そして一気に快適さを増したパソコンの操作感とは裏腹に、妙に落ち着かないというか不安な気分になったりもする。

多分私には、持ち上げただけで上カバーがとれてしまうような庶民的なマウスの使用感が身に染み付いているのだと思う。




■6月19日

数年前、人生にやや自暴自棄になっていたときの、とある記憶をふと思い出した。

夕暮れも過ぎて暗くなってきた頃、ある男性に声を掛けられた。

年齢は私と同じか、もしくはちょっと上くらいだったと思う。

日々の生活に疲れていた私は、あいまいな返事をしながらその男の話になんとなく付き合っていた。

流されるままに、促されるままに、気がつけばひと気のない場所で、体育座りで足の間にその男を挟むという、昼下がりの恋人同士のような体勢になっている。

その男が私の手で自分のフトモモをさすりだした時点で、ようやくそろそろこの状況を理解してみようという気になり始めた。

(こういう人って、普通に身近にいるもんなんだな、、、。)
と、他人事のように分析していた私。

危機感を感じていなかったのは、その男がヤサ男だったのでイザとなったらぶん殴ってでもその場を立ち去る自信があったからなのだと思う。

最終的にイヨイヨという要求をしてきた時点で、
「○○さん!酔っ払ってるでしょう!大丈夫ですか!!」
と大声で言ったら、怯えたように周囲を気にして逃げるように去っていった彼。

日常生活の中で顔を見る機会もあった彼。

なんとなく私に話しかけたそうにしているのはわかるのだけれど、私は常に仕事に夢中なフリをして、あからさまに無視するという行動をとっていた。


この話は彼の名誉の為にも、噂にならないように約1名を除いて今まで誰にも言わずに封印していたのだけれど、今となってはそれが誰だか追及されることも当てられることもないので、これくらいはいいかなと思ったりもしている。


忘れかけていた記憶の扉を一つ一つ開けていくと、私の人生はゲイ遭遇率が結構高いことに気づく。




■6月18日

小学生の頃、シーソーを使って『リンゴとバナナ』という遊びをした記憶がある。

3人で行う遊びで、左右の端に一人ずつ乗り、鬼はシーソーの上に立って左右を行き来する。

鬼は一人ずつに2択の同じ質問をして、答えが別々なら質問を変えてやり直し、答えが同じなら左右に乗った2人がジャンケンをして負けたほうが鬼になるという遊びだった。

鬼は「○○と△△はどっちが好き?」というような質問をするのだけれど、もちろん『リンゴ』と『バナナ』のようなつまらない質問はほとんど無かった。

一番盛り上がるのは、クラスの女子の名前を選択肢に挙げて、誰が好きなのかを言わせるという行為だった。

基本的に2択なので、2人が答え終わった時点で3人全員が全てを知ってしまうという理不尽さがあった。

単なる遊びなのだけれど、好きでもない女子の名前を選ぶのは小学生の精神衛生上不可能な行為でもあった。

時間制限が無い限り延々と終わることの無い遊びなのだけれど、この遊びの場合、その3割方は鬼がシーソーからバランスを崩して転落してブルーになって終わるという傾向があった。

中盤の盛り上がりと、終わったときのテンションの下がり具合のギャップが激しい遊びだったと思う。

それでもその遊びをやめなかったのは、基本的に頭が悪かったからなのだと思う。




■6月17日

『壁にぶつかる』ということは、問題を解決出来る出来ないにかかわらず『成長した』こととイコールだという話を聞いたことがある。

壁のある場所まで自らの足で歩いてきたということ、今まで見えなかったものが見えてきたということだという解釈だったと思う。

発想の転換というか、モノは言いようだなと感心した記憶がある。

『困難』や『厄災』は向こうからやってきてふりかかるという根本的なイメージを、かなりポジティブに覆した考え方だと思う。

数年前に聞いたこの話を今でも忘れずに憶えているのは、それが自分にやさしい考え方だからなのだと思う。

『問題を解決出来る出来ないにかかわらず』というところがとくに魅力的だ。


人の話を聞かない傾向のある私も、そういう考え方に関してはスンナリと自分のものに出来る柔軟さがあるのだなと、改めて自分を褒めてあげたい。




■6月16日

中学2年生の時の担任は、握力が75kgあった。

正確に言うと、そう自称していた。

授業中や朝礼等で、普通のトーンで友人と雑談する傾向のあった私はよく先生方に怒られたのだけれど、この担任の先生に頭をわしづかみされるのが一番しんどかった記憶がある。

「ぐあぁぁぁぁ、、、。」
「ぎやぁぁぁぁ、、、。」

体育館やグラウンドに響くうめき声。

もちろん話相手の友人も同時に頭を掴まれている。

物理的な痛さはもとより、周囲のみんなからの視線がイタイという精神的なダメージが強かったと思う。

うめき声を上げなければいいのだけれど、その頃はまだ自分自身のリアクションを制御できていなかったのだと思う。

人からイジられる原因がその辺りにあることに気づくまで、まだあと数年はかかるということを知るよしもなかった中学時代。




■6月15日

近所にはPCショップが2店と大手電気屋が1店ある。

ちょっと高価なマウスを購入するのに、何処で買おうか迷う。

お店をハシゴしてお互いに値下げ競争をさせて一番安いトコロで買うという人はそれなりにいると思う。

でも今回の場合、1〜2千円安くするために2〜3時間動き回る気にもなれない。

むしろ1〜2千円で、2〜3時間を自分で有意義に使えるのであれば、そっちのほうがいいと思う。

もちろん2〜3時間で1〜2千円儲けたという考え方も否定はしない。

そのときの状況で、『時間』と『お金』のどちらに比重をおくか、TPOに合わせて人は動くのだと思う。


また、人前では『時間はお金じゃ買えないから』みたいなことを言っておいて、高価な時計を買うのに何時間も悩んだりするのだと思う。




■6月14日

ちょっと調子がすぐれないので仕事を休んできた。

久々に気分が悪い。


この『気分が悪い』という言い方は良く使うのだけれど、精神的な意味合いが強いのか、しばしば誤解をうけることがある。

数年前に仕事場で
「気分が悪いので今日は帰る。」
と言ったら、
「ワガママ言わないで下さい。」
という返事がかえってきたことがある。

それ以来、『気持ちが悪い』という言い方に変えたりして、意思を伝えようとしているのだけれど、この表現はあんまり好きじゃない。

何故かと聞かれると、それが何でかはわからないのだけれど、これも何かしらのトラウマとして記憶の奥に封じた思い出があるのかもしれない。


他人から『気持ち悪い』と言われることはスルーできても、自らを『気持ち悪い』と称することには抵抗があるのだろうなとも思う。




■6月13日

今日は快晴の一日。

その割には気温が低いようで、肌寒くも感じた一日。

とりあえず長袖Tシャツの上に長袖のワイシャツを着て寒さをしのいだ一日でもあった。

ただ気になったのは、会社の同僚が皆半袖Tシャツで過ごしていたということ。

最初のうちは服のチョイスを間違えたのだろうと思っていたのだけれど、社内外の人たちも含めみんな半袖で活動している。

(あれ?)

さすがにちょっと不安になったので、まさかとは思いつつ聞いてみる。

「あの、今日って寒いですよね。」
「え?寒くないよ。今日は朝から暑いよ。」
「(えー、そうなのか、、、。)」

確かに道行く人もみんな半袖だ。

こんなとき、自分の感覚が凄く不安にもなる。

基本的に『暑さ』『寒さ』の感じ方なんて人それぞれ個人差があるものだろういうことで、強引にでも精神的な部分を納得させておきたい。




■6月12日

パソコンの動作が異様に遅くなってしまったので、電話でプロにサポートを受けながら色々とやってみた。

結果からいうと全然改善されていないのだけれど、今のセキュリティソフト以外のもので、スキャンをかけてみるのも効果的だということを教えてもらった。

早速やってはみたものの、PCの動作が遅いので尋常じゃないくらいに時間がかかる。

その日はそのまま寝てしまったのだけれど、朝起きたらまだ終わっていなかった。

仕事が終わって帰ってきたら、まだ終わっていない。



経過時間は22時間36分17秒。

実は終わるまでここからさらに小一時間程かかった。


ようやく終わってディスプレイに表示された結果は、まったくの『異常なし』だった。

「なんだ?それ、、、。」

思わず声に出してツッコミを入れてしまうほどに虚しい結果だ。


私自身はそれほど何かをしたわけではないのだけれど、なんか凄く疲れた。




■6月11日

タイミングが悪い人というのがいる。

大事な話をしているときや、移動中、運転中、トイレの真最中に限って電話をかけてきたりするヤツだ。

(タイミング悪いなぁ、、、。)
と思いながら電話がとれないままになってしまう。

でもよく考えたら、向こうにとっては用事があるときにいつも電話に出られない状況にいる私のほうが、タイミングの悪いヤツなのだと思う。

基本的にタイミングが悪いと思っているヤツは、お互いにどうしようもなく相性が悪い存在なのだと思う。

それでもタイミングが悪いとぼやきながら、平行線のまま延々とその関係が続く存在でもあるのだと思う。


もっともタイミングが悪いとか言っているうちは、自分が自己中心的なのだと戒めておきたい。




■6月10日

言うべきか言わないべきか迷っていると、結局タイミングを逃して言えず終いになることがある。

そしてやっぱり言えばよかったと後悔することもよくある。

よく、『後悔するくらいなら言ったほうがいい』とか一般的に言われているだけに、あたかもそれが正論のように思われている傾向があると思う。

でも私の場合、言わなくてよかったと思うことのほうが格段に多い。

そういう人間も世の中にはいる。

言いたいことをそのまま言っていた頃は、自分でも『迂闊』という言葉が似合い過ぎていたと思う。

デンサー節にも習って、ようやく人並みに慎重にコトを進められるようになってきた昨今。

人の話を黙って聞いているときの私は、言ったらその場を凍らせるような言葉を押さえ込むのに必死で葛藤している状態でもある。




■6月9日

今日は久々に亜熱帯を思わせる激しい雨が降った。

雨が降ると、タイの農村にいたときのことが思い出される。

私の知る限り、カサを持っている村人は一人もいなかった。

『雨が降ったら濡れる』というのが当たり前の常識として存在していたと思う。

雨季は常に全身濡れることを前提として、短パンなどの薄着のコーディネートをするという逆転の発想も学んだ。

基本的に雨季は暑いので雨に濡れてもそれほど気にならない。

もちろんやや寒い乾季にはほとんど雨が降らないということもある。


タイ人との雑談中、日本の雨事情を聞かれたことがある。

「やっぱり日本も雨は降るのかい?」
「ええ、こんなに激しくは無いですけど、ちょいちょい降りますよ。」
「日本は雨季が無いのか?!」
「一応6月が雨季になりますが、雨は年間を通して降りますよ。」
「ちょっと待て!寒い冬に雨が降るのか!?一体どうするんだ?」
「いや、そんな、別にどうもしません、、、。」

それからしばらくの間、『寒いのに雨』というしょうもない話題で数時間もの間、異様な盛り上がりをみせたタイの昼下がり。


「寒い時期に雨が降るなんてな、、、。」
とつぶやいて、無言で首を左右に振った老人は、心から日本を憐れむ表情をみせてくれた。

「それに比べてタイはいいところだろう?」
という問いかけにハイと頷いてはみるものの、『冬の雨』が決め手となっているわけではないことは明らかだったと思う。




■6月8日

仕事場の裏で黒ネコの親子をよく見かける。

暖かい昼下がり、子猫たちが結構無防備に寝ているのを見かける。

ちょっと近くに寄って見てみようと思い、カメラ片手にそっと近づいてみる。


いた。

黒くてよくわからないけれど、黒い物体が草むらからはみ出ている。


もうちょっと息をひそめて近づいてみる。



何も知らずに顔を上に向けてスヤスヤと眠っている子ネコ。

もっと近くに寄ってみようと思ったその時、別の存在を発見。


子ネコが寝ているすぐ後ろでは、親猫ネコが臨戦態勢でコッチをニラんでいた。


『それ以上近寄ったら殺すぞ』というオーラが感じられた視線。

もちろん怖くてすぐに逃げました。


その間、子ネコ寝っぱなし。

幸せなひとときとは、そういうものなのだと思う。




■6月7日

中学生くらいの頃、『運命』があるかないかの話題になったことがあった。

私は当時、どうせ『運命』は知ることができないのだから、あってもなくてもどうでもいい話だろうと考えていたと思う。

実際その話題がでたときに、興味がなくなって別のことを考えていた。

そしてそんなときに限って自分にその話題がふられる。

「ねえ、○○くんはどう思う?」
「え?!あ、あぁ、わかんないんだから同じことじゃないの。」

別のことを考えていた私は、その突然のフリに思わず結論だけを言ってしまったことを憶えている。

おそらく会話の流れを無視した、一気に飛んだ内容だったのだと思う。

突然出てきたよくわからない結論に皆マユをひそめていたものの、その説明をする気がまったく無かった私。

わからないヤツが悪い、くらいに考えていたのだと思う。

そのあと放課後に一人だけ
「あれは、こういうことを言っていたんだよね。」
と、私の考えがわかったことを言われたのだけれど、それはそれで何となく納得がいかなかった記憶もある。

人に同意するのも人から理解されるのもイヤという、ひねた子供だったあの頃。

大人になった今でも、何考えてるかわからないとよく言われるのは、根本が今もあの頃と変わっていからなのだと思う。




■6月6日

最近PCの調子が悪い。

処理速度が一気に落ちて、動画関係が対処できなくなってる。

音声だけが流れて、画像がスローで後から追いかけるような状態。

いっこく堂の『声が遅れて聞こえてるよ』の逆バージョンだ。

色々と手を尽くしてみたものの一向に回復の兆しが見えてこないので、もうOSを再インストールしてしまおうかとも思う。

でも今までの数年間、自分好みに変えながら長く付き合ってきたPCであるだけに、再インストールで初期化するのは中々にしのびない。

きっとそんなことを考えているうちに、PCのほうが壊れてしまうのだと思う。


自分から別れを切り出せない挙句に、フラれて落ち込むというパターンが、日常生活にも根強く反映されているのだと思う。




■6月5日

昔、鼻血が出やすい体質だった。

鼻をぶつけて鼻血が出るのではなく、食後に突然鼻血が出ることが多かった。

それもその出方が尋常じゃなかった。

血が薄いのか、水のように流れ出ていたのを憶えている。

ティッシュを鼻に詰めても、アッという間に真っ赤に染まってまたポタポタと垂れてしまう。

病気なのではないかと本気で心配していた時期もあった。

今思えば単に栄養の分配の仕方を、身体がよくわかっていなかったのだと思う。


今でも大量に食事を摂ると、突然鼻血がでてくることがある。

多分今でも余分な栄養はとりあえず血にまわしているのだと思う。


私が『とりあえず』という対応をよくしてしまうのは、身体的な部分から根強くある避けられないものなのだと思いたい。




■6月4日

『自動販売機のボタンを押したままの状態にしておく』、というイタズラがマイブームだったことがある。

その辺のプルトップキャップをボタンのスキマにねじ込んで、常にボタンが押された状態にしておく。

誰かがお金を入れた途端に、選んでもいない『おしるこドリンク』とかが出てきてしまうという、ややお茶目な部類に入るイタズラだった。

ただ、当然のごとくずっと自販機の前で誰かが来るのを待っているわけではなかったので、その成果を楽しめたことはほとんど無かったと思う。

今考えてみると、何でそんな誰も面白味を感じられないイタズラをしていたのだろうかと思う。

多分色々と病んでいたのだと思う。

今思えば、千円札を入れた人とかには抜群に嫌なフィーバーを提供していたのかもしれない。

いや、よく考えたらその頃は千円札が使える自販機のほうが稀だったと思う。

一応それなりに考えてはいたのかなと、自身の少年期を肯定しておきたい。




■6月3日

休日なのに朝から雨が降っている。

昨晩は夜更かししてしまったこともあり、朝のニュースを聞き流しながら惰眠をむさぼるひととき。

11時くらいでようやく布団から起き出す。

時間的にお腹が空いている。

部屋に食べるものが無いので外食してしまおうと思うものの、外は予想外に雨風が強い。

そんなわけで初めての出前をとってみることにしてみた。

数十分後にはおいしそうなカレーが到着。


注文内容を聞かれる直前で、最初に考えていたものとまったく違うものを注文してしまった。

何か大きな力がはたらいたのだと思う。

噂には聞いていた『一人で一人前の出前をたのむ』ということがこんなにも高いハードルだとは思わなかった。

とりあえず昼食に二人前のカレーを食べ切るポテンシャルは持っていたらしい。




■6月2日

大学生の頃、テレビゲームにハマッた時期があった。

ファミレスでバイトをしていたこともあって、お金も食べ物も不自由していなく、彼女もいない。

部活を休んでまでゲームをやってたこともあった。

ロクに運動もせずに、必要以上に食べては寝ながら家でゲームをしているという日々が続いて、いつの間にか体重が70キロ代になっていたことを憶えている。

その後、バイトを辞めて気がつけば金が無くて、2ヶ月くらいで20キロほど体重が減ったりもした。

もっともそのあたりが標準体重ぐらいだったと思う。

そのときに、どうやら自分はいつでも簡単にヤセることが出来るらしいということに気づいたのだと思う。

確かにそれ以来、今日の今まで食生活を怠惰に過ごすことに何の抵抗も無かったと思う。

ただ、ヤセた時点で健康体かどうかは別問題だったとも思う。




■6月1日

携帯電話が浸透するちょっと前の数年間は、ポケベルが流行っていたと思う。

公衆電話からポケベルに文章を打ち込むのがもの凄く速い友人がいたことを憶えている。

その打ち込みの脅威のスピードに周囲からは感嘆の声が沸き起こったりもしていた。

そして彼女のメッセージを受け取ったほとんどの人間が、ほぼ共通して言っていた言葉。
「あいつ打ち込むのは速いんだけど、何が打ってあるのかが全然わからないんだよね。」


すごい致命的だと思った。



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